近代社会と平和

著作権© 2017年 小池 勝

経済と言う利益を生むエンジンは、道徳と言うブレーキと一体の存在として

社会に生まれるべきであった。

然し専門家と呼ばれる法律家は、人意的な法律を、精神的道徳と勝手に置き換え、

政治家と呼ばれる暴力装置を内蔵する社会階層と提携して、「法律」を民衆の支配道具化した。

 

人間の欲望は本来、道徳と言う「檻」の中で飼い慣らされる受け身の大人しい家畜であるべきなのに、

政治家は自分の欲望達成手段として、近代科学と言う「化粧」を施し野に放った。

 

ついには宗教まで人間精神の武器化「必需品」に化けさせ、Justiceと言う言葉まで、

白人社会の肯定論ツール化したので、今やイスラム社会まで対抗上神の名で殺人を行っている。


 さてエンジンとブレーキの話であった。


社会には予算と言う経済的な枠組みがある。

PCと言うDigital信号を餌に育った生物は、IoTで自己増殖の手段を手に入れ、

いよいよ生命の鼓動を感じされる存在になりつつある。

 

たぶん今が、PCに道徳と言う自己抑制の「精神」を埋め込むチャンスかもしれない。


やっと彼らが幼い言葉で相互通信を始めたからである。


自動車が発明されて以来、約100年掛かって、

やっと自動ブレーキと言う自己抑制機能の搭載が始まった。

 

自動車と言う人間の足ロボットが、人間並みに危ない時に止まる機能を得るのに、

近代社会でも100年掛かるのだ。

自動車産業をはじめ、収益を目的とした企業は、国民とか地域社会の人々の

安全や生命より、収益を優先する。

何もアメリカの産軍複合体でなくても、企業経営者に宗教的倫理観が求められていない以上、

車や車社会の安全性が後回しになってきた歴史には、必然性がある。、

 

然し今やっと自動車と言う怪物に、倫理観の芽を付加し積載する機会がやってきた。

マスコミは販売増加目的で、自動ブレーキの車の宣伝に力を注いでいますが、

 

ブレーキと言う制御装置の自動化なら、

センサーとデジタルカメラの組み合わせで、20〜30年も以前に積載可能であった。

そんな頃から必需品として装備できたはずである。

 

自動車産業経営者たちの道徳や倫理観は、この程度のレベルであった。

尚私小池は、事故を激減できる「電波標識」の実用新案を登録していた。

人間がいかに愚かかを、やっと知ることが出来た。

 

経済社会の道徳も、インカ文明を全滅させたスペイン軍の銃など、当時の近代兵器と、

イエズス会の母体であったカトリック信仰とは、南米の富と人命とを

大量に奪ってヨーロッパに持ち帰った。

 

近代政治社会と経済社会とは、この様にしてハーバード大学やナチズムの優生思想の波に乗り、

インディオや原爆による日本人非戦闘員の大量焼殺と共に拡散した。